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哲学関連の個人的メモ

作成日時:2026-03-15
更新日時:2026-03-15

まず真理とは絶対的なものではない。

経験や場合や状況、「おおよその一致」において変化する。
故にその都度、善を考えなけれならない。

善を考えるために必要なのが
知識(経験)とメンタルモデル

たくさん勉強し
たくさん経験し
たくさん本を読むことにより

知識の増大とメンタルモデルの構築を行う。
これらにより最善を得る可能性が上がる。

真理とは自己の中におおよその形である
経験と周りの空気感によって形成された「おおよその真理」が。
経験の増大とメンタルモデルの更新、および周囲の環境によって、その真理は変更される。

会話の本質は「コンテキストの共有」だと考えている。
つまり「判断の一致」を行うための判断材料を共有する。
「なぜそう考えたか」を相手が認知さえすれば、問題が発生する可能性は低減する。


結局は他者
どうでもいい

考えたことが現実
わからんものについては沈黙せねばならない
認知したもののみが世界


自身のクローンであっても完全な意思疎通は不可能。
他人の死は認知できるが自身の死は認知できない。

おおよその「正しい判断」は、それまでに蓄積された知識と構築されたメンタルモデルに依存する。
故に勉強し続ける必要がある。

やたら外に出たがるのは、消極的に自殺を望んでいるのかもしれない。


相対主義に関して。
価値観は人それぞれであるとした場合において、
相対主義においては「殺人は良いことだ」と幼少から教え込まれた人間の価値観も許容することになる。
ここでローティの「連帯」の概念が出てくる。
殺人を許容した場合、共同体が成り立たない。共同体における「最善」としては殺人を許容しない。(若干ローティと異なる認識)

私の思想の1つである「善の追求」に繋がる。
自身や所属する共同体における最善を追い求める。

では自身が所属しない共同体や別の思想をもつ共同体との最善は?
→システム開発で例えれば圧倒的当事者意識による越境?
「何が最善か」の合意

アウフベーヘンやコンテキストの共有によりそれを促す。
特に後者。
認知モデルに含まれていない概念を対話しても合意を得られることは無い。
「なぜそうなのか」という背景や文脈を渡さなければならない。

相互理解に一番必要なのは「対話」ではなく、「コンテキストを共有したうえでの対話」。


他者のメンタルモデルを許容できないならば、見なければいいのでは

組織論の文脈において、人を動かすには
概念の認知とメンタルモデルの構築が必要だと思う。

「主義」という言葉を使った時点で「主義の奴隷」となっている。


思想の奴隷になるな


結局は他人
過去の自分も他人となる



哲学とはメンタルモデルの構築。
考え方を増やす/更新すること。

思考は知識とメンタルモデルからなる。


相対主義。これは個人の真理で終わらない。共同体としての真理、共同体としての相対主義がある。


他者との間における、真理の完全一致の不可能性。
他者とは認知モデルが異なるから、情報が同一でも導出される真理が同一なわけがない。
そしてそれは自分自身においても言える。
過去の自分と今の自分では認知モデルと状況が異なる。
自分の正しさが共同体の正しさと思うな。


正しさをその時点の自分に有用なものとしても、他者との関係がある。
その場合において有用なものとは何か?功利主義?
その場における最善・最適解?
おおよその他者との判断の一致?おおよそってなんだ。
ウィトゲンシュタインとローティの経験と連帯の話か?


意図が通じるとは判断の一致で、そのためにはコンテキストの共有が必要条件では。
必要条件なので、コンテキストを伝えても判断が一致するわけではない。
自分と他者は認知モデルが違うのだから。


相互理解は良い経験と学習からなる。故に学び続けなければならないのではないか。
だが、良い経験とは何か。
デューイにおいては教育とは良い経験をさせることと言った。

経験による”よい”認知モデルの構築
気質は遺伝と環境における経験から成るのでは。
自分と異なる考えを持つ人は自分と異なる経験をしていただけ。
認知モデルが異なるかrあ意見は一致しない。
コンテキストの共有でおおよその判断の一致をするしかない。


私は「はじめに認知ありき」という座右の銘を持っていた。
何故ならば、概念を認知しなければ自発的にその概念に伴う行動を起こすことはあり得ない。
また、コンテキストを認知しなければ正しい(ここにおける”正しい”はコンテキストに沿ったという意味)行動を起こすことはできない.
良き行動をするには認知が先んじて行われなければならない。

「はじめに認知ありき」は聖書の一節を真似したものだ。
ただ最近思うことは「はじめに言葉ありき」が正しいのではないかと思った。
原点とは別の意味として。

形式知の認知は言葉から。
暗黙知もおおよそは対話、つまり言葉によって認知される。
故に過去の自分が重要視していた「認知」よりもその前の「言葉」が、
最善の行動のために重要なのではないか。

故に哲学や認知心理学と一緒に、言語学も学ぼうとした。
言語は思考のツール。

他者の存在により言葉やルールが意味を成す。
無人島ではあまり意味をなさない。


物事が認知モデルによって解釈されるなら、全員が同じ認知モデルを持てば解釈は一致する。
つまり同じ経験を共有すること。
しかし、それは不可能なので、言語に寄る疑似的な共有しかできない?
コンテキスト共有による、認知モデルのすり合わせ?


ハイデガーやポストモダンは曖昧でなんかやだ。
SEという職業的に曖昧さを許容できない。
曖昧は解釈をばらけさせる。
ただでさえ認知モデルの相違によって、解釈は人それぞれなのに。
分析哲学やウィトゲンシュタインが好き。


良く知りもしないものに対して、発言しようとするな。
理解が先だ。


最大多数の最大幸福より善の追求。
善の中に最大多数の最大幸福がある。
善 ⊃ 最大多数の最大幸福


今の自分の思想と方向性をまとめてみた。
自分は、下記の方向性から哲学を学び、実践的に使用したいと思っている。

現時点での個人の実現したい思い/座右の銘は下記である。


プログラミング言語も言語なので言語ゲームの対象である。
共通のルール(文法)やコンテキスト(要求/要件/設計)を知らなければ、理解ができない。
コーディング原則、名前重要やコメントはコンテキストの共有と言える。

人間が明確な意思疎通をするには、コンテキストの共有が必要である。
コンテキストが共有されない場合、少ない情報で駆け引きを行う過酷なゲームを強いられることとなる。


「正しさ」はその時点において、最適な知識とメンタルモデルを持っていなければ得ることはできない。
だが、最適なそれらとは何か。
「その場におけるおおよその善」か?
場における他者とのおおよその一致でもある。

仮に自身だけの問題であり、そこに他者が存在しなければ、善とは自身の経験とメンタルモデルによってのみ判断される。


相対主義
正しさは個人個人が経験によって培った認知モデルによる。そのため価値観は人により異なる。
じゃあ共同体の中における価値観は?
→ローティ、連帯、言語ゲーム
共同体の価値観の決定には、知識とメンタルモデルの共有が必須なのか。

SES、他の会社のSESがいるところで営業の話をするな。
個別に話せ。

相対主義の後にローティの連帯
完全なる個人ごとの真理ではなく、共同体としての真理?


基本的に言葉は曖昧で不完全である。
完全には相手に意図は伝わらない。
だからと言って会話をしないのは論外である。
それは意図が伝わる可能性を0にしているだけ。


コンテキストの共有が意思疎通の必要条件。


結局はプラグマティズム。
“なんであるか”より”何に伝えるか""有用か”


他者の思想を「XXXのために利用している」と批判できない。
自分も何らかの思想を利用している。


それは事実か?意見か?分けてかけ。


意思決定に重要なのは

なのだから、簡単に言えば「たくさん勉強してたくさん会話しましょう」がいい人生への一歩かもしれない。
「たくさん」は量ではなく、質と多様性。


ものを伝える。
理解されたとして、かならずしも共感されるわけではない。
故にマインドコントロールの技法が必要となる。


システム開発において重要なのは「何をするか」ではなく「なぜするのか」
これが曖昧だと、誰もその作業の妥当性を検証できない。


良き伝達とは


p->qが真の場合、
pはqの十分条件で、qはpの必要条件。
命題の逆が真である場合、必要十分条件となる


「最終的な意思決定方法」
「善が衝突したときのアルゴリズム」
これらは定義した瞬間に、フロネシスが死ぬ。

座右の銘は個人の価値観を極限まで抽象化したもの


ネオ・プラグマティズムは暗黙知の形式知のあいの子では?
暗黙知→経験
形式知→連帯


ワーキングメモリはどうすれば大きくなるか

筋肉と同じ。
適度に負荷をかけることと、ストレスや疲労を避けること。


他者が居なければ自己の妥当性は検証できない。
自分の中の正当性はあくまで自分の中での話に過ぎない。
レビューがいい例。


戦略的利己主義

自己の利益のために他者に貢献する。
どうするのか?
自社にはKMによる認知の提供。
顧客には狩野モデルベースでCSの提供か。


二重貯蔵モデル

LTSからSTSへのデータのロードも認知負荷となる。